Features
●修士号取得
「子どもが小さくても、やり切る自信があるから私のインタビューを受けに来たんでしょう? 挑戦したらいいわ」
学長のそのひとことが背中を押しました。3番目の子どもがお腹にいた時のことでした。修士論文を提出すべく、学長室に走ったのは帰国の前日。学長は耳元で“Say hello to your babies”と言って、私をギュッと抱きしめてくれました。
●ニューヨークWISH日本語電話相談室カウンセラー
異国にあって戸惑いやら不安、さらには悩み事で心が塞いだら、受話器に手を伸ばして!
“Hello this is WISH. Can I help you?”
精神病理学を専攻したソーシャルワーカーのKaplan,M女史がニューヨーク州で始めた多言語多国籍ホットライン、WISH(women-in-Self-Help)は、1978年に日本語サービスを加えたのに続き、スペイン語や韓国語、さらには黒人専用ライン、子育て期にある母親専用ラインなどを次々に加え、アメリカに住むあらゆる人たちのニーズに応えるべくその活動を充実させました。私はJapanese Connection (日本語対応) のカウンセラーとして在米邦人のあらゆる困りごとに対応する一方、受話器に手を伸ばす勇気のない人のために、邦人紙の「OCSニュース」でコラム『WISH日本語電話相談室』を連載しました。
●海外在住邦人のメンタルヘルスをテーマにした『カルチャーショック』への原稿依頼
6年ぶりに日本に戻る直前、偶然手にした朝日新聞に、「フランスでの邦人自殺者が年間27人となった」という記事を見つけ、自殺の原因を検証した慈恵医大の精神科医、大西守先生のコメントに目が止まりました。「もしフランスに日本語で相談できるホットラインがあったら、彼らは死なずにすんだ」。NYには日本語のホットラインが…。帰国後、新聞の切れ端を握りしめ、慈恵医大に出向き、日本語電話相談室の実態を綴った修士論文を差し出したら、後日、「カルチャーショック」の執筆メンバーに入れて頂くことに。1歳にならない4番目の子がせっかく書いた原稿を時々食べたりして、大騒動の作業となりました。
●「ある日海外赴任」連載
暮れも押し迫った12月31日。やり残していた網戸洗いの真っ最中に激しく鳴る電話のベル。黒く汚れた泡を振り落し、サンダルを脱ぎ捨て、息せき切って受話器を取ったら、「えー、こちら毎日新聞の〇〇です。来年から連載お願いできます?」。正月が明け、連載の詳細が。網戸洗いに気を取られ、うっかりお引き受けしていたことを後悔することに。連載は海外赴任に戸惑う家族向けにQ&A形式で不安や疑問に答えたもの。出発前から駐在時、そして帰国後と場面を分け、生活の初期設営や子どもの学校問題、ご近所付き合いや異文化理解など、多岐に亘って具体的に解説したものです。1年の連載はその後、書籍になり、私の日常も急に忙しくなりました。海外駐在がうなぎ登りに増えたバブル期でもあり、本は勢いよく売れ、朝日新聞国際衛星版から連載の依頼が。さらにはNHKの国際放送からもお声が掛かり、「海外・くらしの情報」と題して、毎週、生放送で世界の邦人向けに発信することになりました。
●違法看板撤去
アメリカから帰国後、購入した一軒家は、大学、病院、公園などがセンス良く配置されたお洒落な町の一画にありました。ところが、まっさらな電柱や整えられた立木があっという間に風俗ビラやテレクラ看板、サラ金看板に覆われたから、もうびっくり。公共空間に何するものぞ。やりたい放題の違法業者が勝つか、私が勝つか。取締りを諦めていた役所、警察、東電を巻き込み、昼夜を問わず摘発の巡回、撤去作業まで厭わず続けて、とうとう我が新品の町は、千葉県で唯一、住宅地も含めた「屋外広告物取締り特別規制地区」に制定されたのでした。
●日本人留学生がアメリカで射殺された服部君事件
ハロウィンの日に訪問先を間違えて、銃弾に倒れた服部君。まだ17歳でした。出産、子育て、大学院に走り回った米国時代、私は、隣人たちの多くの優しさに助けられました。この悲劇で米国は恐ろしい国、との印象が広がっては欲しくないとの思いから、悲劇の数日後に、急仕立てで自主セミナー「海外で危険な目に遭わないために」を開催しました。
新聞に告知された瞬間に申し込みの電話が殺到し、あっという間に1000名を超え、先着100名のセミナーは、結局複数回開催することになりました。勢いと思いだけで開催した手作りセミナーは、受付も資料配布も看板も、ご近所の主婦仲間が力を貸してくれ、まさに主婦の瞬発力ここにありでした。講師として講義を分担してくれた駐妻仲間にも大感謝。
セミナーがマスコミに大きく取り上げられ、また急ぎ書き上げた「危険にあわないための海外安全ガイド」がNHKの朝のニュースで紹介されたこともあり、以後、外務省の海外安全週間のパネラーに名を連ねるなど、危機管理の専門家のひとりとしての活動が始まりました。
本の原稿料、印税はAFSを通じて全額「YOSHI基金」(服部剛丈君のYOSHIを付けた)に寄付させて頂きました。服部君事件の悲しみから間もなく30年となります。
●ホームステイはお母さんが行きます
子育てを担うお母さんだからこそ、多様な価値観を知り、広い視野で物事を考えて欲しい、との思いから、「お母さんのホームステイ」を企画しました。
全国から多数の「お母さん」が10日間の米国ホームステイに挑戦。「夫や子どもたち。私がいない間どうなるかと思ったら、普段よりずっと家の中が綺麗になっていたわ」「お母さんがイキイキとして帰国したことが嬉しいと言われた」「参加できなかった広島の友人たちに、ホストファミリーのママから教えてもらったアメリカ味のアップルパイを焼いて、”アメリカ”をお裾分けしている」、さらには「日本で英語塾を開いているが、アメリカに行ったことがなかった。生活習慣を知ってこそ生きた英語となる。募集の記事を見て、真っ先に申し込んだ」などなど、お母さんならではの感想は参加者内に留めるにはもったいないものでした。
帰国後、それらをまとめた体験記を、「目が見えず、海外生活を体験することが難しいお母さんたちにも読んでもらえたら」と参加者のひとりが点訳を思いつき、全国の点字図書館へ寄贈。日本中のより多くの”お母さんたち”に、”アメリカ”を感じて頂けることになりました。
●ベビーカーの電車内持ち込み
平成10年の秋まで、ベビーカーは駅構内のみならず電車内でも使用は禁止でした。
米国で子育てをした経験からすれば、車内持ち込みは当たり前の光景で、ホームに降り立てば、誰かがベビーカーを担いで階段の上まで運んでくれたものでした。
2番目の子どもを宿し、育児グッズで膨れるバッグを肩に掛け、雨で濡れた傘にも手を取られた母親が、上の子を乗せたベビーカーを何とか押しながら改札を通ろうとした瞬間、「だめだめ、ベビーカーは畳んで。使用禁止!」と駅員が。悔しさに泣いた母親に頼まれて、
私は複数の鉄道会社と対峙するシンポジウムにひとり参戦することに。世界のベビーカー利用事情を説明し、説得を試みるその場には、私の知る新聞記者連中が。「ひとりで闘う私を応援して」と投げたFAXに反応して席を埋めてくれていて、
翌日、「無理解な鉄道会社」「使用禁止は日本だけ」の記事となりました。それから僅か1カ月後の平成10年11月1日、我が国は、すべての駅、電車内でベビーカーの使用が認められることになりました。
●アメリカ同時多発テロ「911」
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きます。アメリカの中枢を突如襲った同時多発テロで、3000人近くの犠牲者が出ました。
ニューヨークで邦人が露頭に迷ったら、必ず手の届くところに自分の身を置く。WISH時代にそう決めていた私は、テロの瞬間を伝える報道を見た直後、NY総領事館に電話を入れ、「WISHの福永です、お手伝いできることは?」「こちらでホットラインを立ち上げて頂けますか?」。すぐにも飛行機のチケットを手配し、ニューヨークへの一番機で現地入り。ケネディ空港に降り立つや、NY日本総領事館に直行したのでした。
また、当時連載中だった読売新聞には、「NY日誌」と題して、NY市民の怒りや絶望、日本人被害家族の悲しみの極みを綴りました。
犠牲者の慰霊碑を建立した若き日本人建築家のエピソードも後に原稿に。2021年はその911から20年目の節目です。
●"Remember 9.11" 忘れないあの日のこと -21年目の秋に-
月刊『海外子女教育』9月号(海外子女教育振興財団発行)に寄稿した記事となります。
9.11から21年が経とうとしていますが、この出来事を風化させないためにも、全文を公開しております。
是非ご一読ください。
●インドネシア騒乱 帰国家族から見えた現代ニッポン人
スハルト大統領を辞任に追い込んだ1998年5月のインドネシア騒乱。日本人学校から帰宅途中の
スクールバスは道中の暴動のために学校に引き返し、児童たちはそこで一夜を明かす事態となりました。
駐在員とその家族は、混乱の中で日本への緊急一時帰国を余儀なくされましたが、30年経ったコロナ禍
による帰国やむなしとなったケースとも重なり、さらには、今回のスーダンからの邦人退避にも
通じる出来事でした。当時、政情不安や危機に邦人家族たちはどう対応したのかを綴った渾身の
退避物語です。
<ボランティア活動>
●レッドクロスでボランティア(「911」)
マンハッタンのレッドクロス事務所には、ボランティアを申し出る人たちで長蛇の列が。Social Security Numberとパスポートの提示が求められ、健康か、重いものは持てるかを聞かれ、いくつかの約束事を言い渡されてボランティアIDを取得。私には夜の12時から朝の6時までの時間帯の食事係を言い渡されました。
登録を終えたその足でたまたま立ち寄ったタイムズスクエア―のイタリアンレストランでのこと。首から下げたボランティアIDに気づくや、店主は「私も駆けつけるべきところ、替わって活動してくれているあなたに食事を提供するのは当たり前」と、911の救助活動従事者たちのために設けられた店内の食事無料席へ促し、「いつでも何でも召し上がって下さい」。
自分に出来ることで貢献する。ボランティアの極意を知った忘れられない出来事となりました。911からちょうど1年経った日に、レッドクロスから額に入った感謝状が届きました。そこには「あなたのお陰でNYは元気を取り戻しています。有難う」とありました。
<ボランティア活動>
●マダガスカルのシスター牧野を支援する会
ご近所仲間と行ったマダガスカル旅行で、アベマリア産院の助産師、シスター牧野と出会いました。「母親たちが栄養失調で、生まれた子が命を繋げない。栄養価の高い日本の粉ミルクがあったら…」。
その願いを受け、私たちは、「地球のどこで生まれるかで命が奪われることがあってはならない」との思いで、帰国後すぐさま、粉ミルクの送付を始めました。活動を知った見ず知らずの多くの方々からの支援金にも助けられ、16年間で200箱を。
「あの時の粉ミルクに助けられた子どもたちが、マダガスカルの将来を背負ってくれていますよ」。シスターから届いた手紙にはそう書かれていました。
<定年後のロングステイ>
●「地球に暮らす」連載
「人生のひと仕事に区切りをつけ、たっぷりした自由時間を手にした退職者たちは、もはや地球のどこで寝起きをしてもいいはずだ。まだ現役の体力と飽くなき好奇心を携え、地球のお気に入りの場所にしばし日常を移す『ロングステイ』は、退職後のごく自然な選択肢のひとつといえよう」…こんな書き出して始まった「地球に暮らす」(日本経済新聞)の連載。億万長者ならぬ時間長者たちの創造的で活気あるエピソードを織り交ぜながら、初心者のためのロングステイ考を綴りました。
<定年後のロングステイを講座に>
●城西エクステンション講座
小学校唱歌に、「海は広いな大きいな 行ってみたいなよその国」のくだりがあります。大海原の水平線の向こうにどんな国や暮らしがあるのか、あの時の焦がれるような憧れを講座にしました。
マレーシア、タイ、ハワイなどのロングステイ人気国に加えて、スペイン、カナダ、台湾、NZ、米国、インドネシア、マルタ、ジョージア、イタリア、南仏プロバンス、オーストリア…船での世界一周や、ユーロレイルの旅、ドローンで世界一周新婚旅行など、ゲスト講師も交えたダイナミックなロングステイ講座は、16年間続いています。
<海外邦人支援活動>
●ジャムズネット東京
JAMSNET東京(Japanese Medical Support Network-Tokyo)は、「海外居住経験を持つ医療、保険、福祉、教育、生活等の各分野における多職種の専門家、専門団体ならびに経験豊富な会員が国境を跨いで活動する人々を支援する非営利団体」で、このメンバーのひとりとして、様々な発信や相談のお手伝いをしています。
昨年7月に開催した世界のジャムズネットメンバーを結んだ「コロナ各国事情オンライントーク」は秀逸で、地球市民すべてを襲ったコロナ禍に対して、各国の対策や国民へのメッセージ、市民たちの日常的な取り組みや表情などを語り合って、思いや知恵を共有しました。
地球規模で目を凝らせば、視点の違う発想や工夫が私たちの気持ちを救ってくれることに気づきます。世界のどこにあっても、邦人支援ネットワーク、ジャムズネットグループが海外邦人の活動を支援しています。いつでも何でもご相談下さい。
<グローバル教育>
●国際人をめざす会
次世代を担う子どもたちに海外経験豊かな会員が様々なテーマでお話しをしています。“Be Global”を合言葉に、全国の小・中学校・高校、大学及び社会人団体で出前授業や講演を行い、国際理解、国際感覚、英語習得、英語落語、海外での危機管理など、多彩なテーマでこれからの日本を作る人材の育成に力を注いでいます。
世界を相手にビジネスで駆け巡るダイナミックさ、地球のそこかしこに仲間を作る楽しさ、暮らし人としていろいろな国のコミュニティに溶け込む面白さ、加えて、”Everybody is different, but everybody is an equal"、ひとりひとりが違うことを知り、互いを認め合うことの大切さなどを伝えています。子どもたちは目を輝かせ、自分の人生の舞台の選択肢のひとつとして「海の向こう」を自然に入れ始めています。
海外が遠くなった今こそ、地球規模の互助が求められています。世界と連携するには、地球市民としてしっかりとした教養を身につけ、自立した責任ある人間に成長することが求められます。私たちは学びを止めず、子どもたちにとって大事なグローバル学習の機会が失われることがないよう、積極的に語りかける場を作っています。オンラインでも出講をお引き受けしています。いつでもお声かけを。
<グローバル教育>
●親子留学
何事も本場でとばかり、「親子留学」に何度か挑戦しました。もっとも私の場合は、厳密に言えば、「祖母孫留学」なのですが、出来るだけ早い段階に耳から英語を聞くチャンスを、と孫と連れ立って行った先は、ハワイのプリスクールに始まり、フィリピンの語学学校、シンガポールのアジアキャンプと様々。
ハワイのプリスクールには、日本の冬休みを利用した日本人の親子連れが10数組。中には産休育休中に上の子に英語を、と生まれて間もない子どもを抱えてハワイに乗り込んだ母親までいて、日本の英語熱がそのまま持ち込まれたような熱気に気圧されそうでした。
ハワイもシンガポールも、親は送り迎えだけだったのに、フィリピンは帯同した親も試験でクラス分けされ、毎日数時間の授業が課されるハードさで、錆びついた頭に無理を強いる羽目になったのですが、韓国、中国、ベトナム等々から真剣勝負でやってきた教育ママたちの意気込みを知ったのは収穫でした。プールサイドで、「ねぇねぇどうやって英語の力を伸ばしているの?」「あなたの国は何歳から英語教育が始まるの?」「冬はここ。夏はセブ、そして来年はハワイ? お金はどうやって捻出しているの?」と時に所帯じみた話に興じたのですが、英語以外は喋らないルールを徹底し、英語漬けを堪能した「留学」でした。5歳から受け入れ、年齢の上限なし。宿舎は学内。韓国の親子は、帰り際に我が孫に“Harvardで会おうね”と言って、颯爽と学校を後にしました。